七羽のからすのエピソード
グリム童話の「七羽のからす」という話でちょっと思ったことがあったのでメモ。あらすじはこんな感じです。
なかなか帰ってこない息子たちに父親はイライラして、つい叫んでしまう。「あんなやつらはカラスになってしまえ!」
とたんに息子たちはカラスになって飛んでいってしまう。
妹は大きくなるまで、自分に兄たちがいることを知らなかったが、それを知ると、兄たちを捜しに出かける。
妹は歩きに歩いて世界の果てまでやってきて、太陽のところに行ったが、太陽はとても恐ろしかったので逃げた。次に月のところに行ったが、月はとても意地悪だったので逃げた。次に星のところへ行った。星たちはやさしくて、兄たちがいるガラスの山の扉を開けるための「ヒヨコの骨」をくれた。
妹はガラスの山に到着して、扉を開けるためにヒヨコの骨をとりだそうとした。けれどもそれはなくなっていた。妹は自分の小指を切り落として、それを鍵穴にさしこんだ。するとガラスの山の扉が開いた。
小人がひとり出てきて、「カラスさんたちは留守だが、帰りを待つなら入りなさい」といって妹を中にいれてくれた。
部屋にはテーブルがあり、七人分の食事とワインが用意してあった。妹はそれぞれの皿から少しずつ食べ、それぞれのグラスから少しずつ飲み、最後のグラスに家から持ってきた指輪を入れた。
やがてカラスたちが帰ってきた。妹は隠れていた。カラスたちはグラスの中に両親の指輪を見つけ、「ここに妹がきたらぼくたちは救われますように!」といった。妹が出ていくと、カラスたちは人間の姿に戻った。そして喜んで皆で家路についた。
このなかで、
妹はガラスの山に到着して、扉を開けるためにヒヨコの骨をとりだそうとした。けれどもそれはなくなっていた。妹は自分の小指を切り落として、それを鍵穴にさしこんだ。するとガラスの山の扉が開いた。
の部分は、たとえば
妹はガラスの山に到着して、扉を開けるためにヒヨコの骨をとりだして、それを鍵穴にさしこんだ。するとガラスの山の扉が開いた。
でも物語は支障なく進んでいくと思うのです。ヒヨコの骨はあってもなくても物語は同じ方向に進みます。たぶん。
ではなぜ、「ヒヨコの骨を失くしてしまったので、かわりに自分の小指を切り落として扉を開ける」というエピソードがそこにあるんだろう?
感情がエピソードに置き換えられているのでは。
主人公を困難におとしいれてそれを克服させるというのは、物語を面白くする技法(?)として知られていることだけれど…
「物語を面白くする」っていうのは、具体的にどうなれば「面白くなった」といえるのだろう。
困難におとしいれるということで考えると、
- 緊迫感をうみだす? そして続きを期待させる?
- 思いがけない出来事を起こして印象づける?
- どうしても兄たちを助けたいという妹の気持ちを強調するため? →これかな、と思う。
小指のエピソードを入れることによって、妹の感情を暗示することができる。感情をそのまま語らない昔話だから、その感情をエピソードに置き換える。
たとえば「悲しい気持になった」のかわりに「泣いた」とするよりも、ずっと意外なエピソードにかえられているけれど。
妹の気持ち、イコール、物語の気持ち(目的)。
物語の目的は、始まった物語を終わらせること。
妹が目的を果たせば物語は終わる。つまり、ぶじに兄たちを助けることができれば物語は終わる。
物語をそのおしまいまで聞き届けたいという気持を、聞き手は強めることになる。
こんな感じのことなのかな、と、ヒヨコの骨をなくしたことについて考えました。
(他のお話すべてにあてはまるとは思わないけど。)
でも…
ヒヨコの骨をなくしてしまったという困った状況にたいして、この対処の仕方はちょっとびっくりします。
ただそれも昔話独特の語り方のおかげで、それを聞いた瞬間にちょっとびっくりするだけで、すぐに物語は何事もなかったように進んでいくので、トラウマになりそうな想像はしなくて済み、物語は無事にめでたしめでたしで終わります。
しかも不思議な雰囲気が何倍にも増幅されてます。
そして。
この物語で私がいちばん好きなのは、この小指の場面です。(笑
コメント