前回に引き続き、「昔話へのご招待」からわかったこと。
私は「再話」という言葉の意味もはっきりと理解していなくて、ただ、「昔話へのご招待」の内容を聞き進めていくうちに、自分が昔話の内容を好き勝手に作り変えたものを「再話」と呼んではいけないのだと思うようになった…というのが現状でした。
なんですが、2016年3月の放送で、昔話について使うときの「再話」の意味としてはこういうことなんだな、というのが理解できました。
ごく簡単にまとめてみると、
実際に田舎で語られていた昔話を記録したもの(昔の言葉であったり土地の言葉であったりする)を、今の子供達がわかるような文章にする(このとき、なるべくもとの語りの姿をこわさずに)。このときの言葉は、共通語であってもいいし、それぞれの土地の言葉であってもいい。
ということのようです。
2016.4.15追記
さらに、「昔話の文法に照らし合わせながら、自分の言葉で、自分が語れるように再話しなおす」というふうに、再話という言葉が使われています。
昔話は耳から聞いてイメージしやすい文法がきちんとあるので、それをしっかり踏まえつつ、自分が普段使っている自分の言葉で語りやすいように再話する。
伝承の語り手はみな語り手である前に再話者でもあった、と小澤先生はおっしゃっていました。子供の頃に昔話を聞いて育っても、大人になって自分が語るときには、いきなり全てをきちんと思い出すことはできなくて、部分部分を思い出しながら、自分の中で繰り返していくうちに、文章が出来上がっていく。語り手はみんなが再話者でもあったのだと。
子どものときに語りを聞いたことがない人は、お話を本からおぼえるわけだけれど、語るためにそれを再話するときに、経験として持っていないものを文法としてきちんと学んで、頭で再話できるようにしよう…というのが、昔ばなし大学の目的のひとつなのだそうです。
それから。「耳から聞く言葉と、目で読む文章は違う。耳から聞いてイメージしやすい言葉は、目で読んでも面白くない。」
これは私も以前に思ったことがあります。このラジオ番組を聴き始める前のことですが、小澤むかしばなし研究所(著)の『語るためのグリム童話〈1〉ヘンゼルとグレーテル (語るためのグリム童話 1)』を少し読んだ(目で読んだ)ときに、なーんか面白くないなぁと思って、それっきりこのシリーズには目を向けることがなかったのです。この本は “読むメルヒェンではなく、語るためのメルヒェンとして再話された”とあり、実際に声に出してみて、何度も言葉をチェックしたというようなことが書かれてあったように思います。
が、当時の私は「語る」ことにはほとんど意識が向いておらず(昔ばなしは語り継がれてきたものということは知ってはいたけれど)、面白くお話を読みたいということを普通に考えていたもので…
今になって、ああそうだったのか、あの本もう一度見てみたいな…と思ったりしています。^^;
追伸:再話という言葉についてはこちらのブログ記事も面白かったです。
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