シンデレラの心は揺れていた。【昔話の「三回くりかえし」の意味】

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あまりにも素敵で有名な昔話、シンデレラ。
映画やアニメで親しんだ方も多いはず。
だけど、本来の昔話のストーリーは、それとはちょっと違っています。

こんにちは、サイト管理人そだひさこです。

じつは、シンデレラは三度、舞踏会にいっています。
そして一度目の舞踏会ですでに王子に「私のパートナーはこの人だ」といわせているのです。
それなのに、その日はにげかえってきてしまう。
次の日も、その次の日も。

一度目で王子と結婚する運びになってもこのストーリーは同じ結末を迎えられるのに、なぜシンデレラは三回もにげかえってしまうのか。
それは、このくりかえしが思春期の子どもの心の揺れをあらわしているから、なのだそうです。

この記事ではシンデレラのあらすじ紹介から、シンデレラ特有のくりかえしの意味、昔話の三回くりかえしの一般的な意味、そして昔話というものの存在意義を解説していきます。

シンデレラのあらすじ紹介

シンデレラのあらすじ

シンデレラは継母と継姉たちにひどい扱いをうけている。
汚い服を着せられ、つらい仕事を押し付けられ、台所の灰の中で眠らなければならない。

継母と継姉たちは舞踏会にいくときに、シンデレラが舞踏会に来られないようにする。
シンデレラは実の母の墓にいき、白い鳥から美しい服をもらい、それを着て美しいお姫様になって舞踏会にいく。

舞踏会では王子がシンデレラを見るなり「自分のパートナーはこの人だ」といって、自分以外の誰とも踊らせなかった。
けれどもシンデレラは舞踏会の途中でにげかえってきてしまう。

次の晩も継母と継姉たちは舞踏会にいくときに、シンデレラが舞踏会に来られないようにする。
シンデレラは実の母の墓にいき、白い鳥からもっと美しい服をもらい、それを着てもっと美しいお姫様になって舞踏会にいく。

王子は今度こそシンデレラがどこの誰なのか知りたいと思い、自分以外の誰とも踊らせなかった。
しかしシンデレラはまたも、途中でにげかえってきてしまう。

三日目の晩も継母と継姉たちは舞踏会にいくときに、シンデレラが舞踏会に来られないようにする。
シンデレラは実の母の墓にいき、白い鳥から今までよりもっと美しい服をもらい、それを着て今までよりもっと美しいお姫様になって舞踏会にいく。

ところが、王子は今度こそシンデレラがどこの誰なのか知りたいと思い、階段にタールを塗っておく。
シンデレラはにげかえるときに、階段でタールに足をとられて片方の靴をおいてきてしまう。

王子はその靴を手がかりに、靴にぴったり合う足の持ち主であるシンデレラを探し出す。
そして王子はシンデレラと結婚する。

ラジオ番組「小澤俊夫 昔話へのご招待 第2話」を参考に「グリム」のシンデレラのあらすじをご紹介しました。

民衆の間で語り継がれてきた昔話は世界中にいろいろな類話があり、シンデレラも各国によく似た話があります。そして昔話をもとにした作家の作品も多く存在します。

フランスの文学者シャルル・ペローが「サンドリヨン、または小さなガラスの靴」というタイトルで書いた物語に仙女やカボチャの馬車やガラスの靴が用いられており、日本ではむしろこちらの話のほうが有名になっています。

シンデレラにきれいな服をくれるのは、実の母親の墓に来る白い鳥

Cinderella by Elenore Abbott ウィキメディア・コモンズより

グリムのシンデレラの場合。
シンデレラは継母たちに舞踏会に連れて行ってもらえず、亡くなった実の母のお墓に行きます。
すると、白い鳥が飛んできて、シンデレラに美しい服をくれます。

鳥というのは死んだ人の魂をあらわしているといわれ、これは世界でもほぼ共通のことなのだそうです。
実の母のお墓に飛んできた白い鳥、これは死んだお母さんの魂をあらわしているといえます。

シンデレラを美しい姿にして、舞踏会に行かせてくれたのは本当のお母さん。
いい話ですね~(涙

ペローのシンデレラの場合。
シンデレラは名付け親である仙女の魔法によって、美しいドレスを着たお姫様になり、かぼちゃの馬車で舞踏会に行くという夢のようなラッキーな展開です。
親といっても、生きている(?)名付け親なので、グリムのものと意味合いがかなり違ってきますね。

「死んだお母さんの魂が美しい服をくれた」というモチーフのほうが私はぜったいに好きだけれど、一方でこんな夢のような場面を作り上げることのできるペローの才能がうらやましい限りでもあります・・・。

シンデレラは三度、舞踏会にいっている

さて、シンデレラは3日続けて舞踏会に行っています。(2日目と3日目だけという話もあるようですが。)ペローの話でも2日続けて舞踏会が行われています。

しかし現代広く知られている話では、一度目の舞踏会ですでにガラスの靴を置いてきてしまいます。

これは、昔話が本来は「声で語り、耳で聞く」ものであった、つまり音で聞くものであったために「三回くりかえし」という特徴があるのに対し、
「文字に書かれて目で読むもの」になったときには、このくりかえしが無駄に長く感じられたために、重要な「最後の晩の舞踏会」という出来事だけが残されてしまったのです。

現代では物語は本で読むもの、映像で見るものです。だから、「語る話」としての独特の形に全くなじみがないというのが普通のことだと思います。

ところが、「三回のくりかえし」は昔話ではじつはとても大事な意味のある要素なのです。

そしてシンデレラには、さらにシンデレラ特有の意味が加わります。
シンデレラは、一度目の舞踏会ですでに王子の目にとまっているのに、なぜにげかえってしまうの?という謎です。

靴が片方ぬげたのは、王子が階段にタールを塗っておいたから

王子
王子

彼女は、いつもいつも私からにげかえってしまう。
なぜ彼女は、自分がどこの誰なのかを教えてくれないのだろう。

王子
王子

にげかえるくらいなら、なぜここに来るのだろう。
彼女は私のことをどう思っているのだろうか。

王子
王子

彼女は今日も来てくれるだろうか。
今日こそは、彼女ににげられてはいけない。

と、王子がいったかどうかはわかりませんが。

王子は3日目の舞踏会のとき、階段にタールをぬっておきます。
シンデレラはにげかえるときに、階段にぬられたタールのべたべたに靴をひっかけて、片方ぬげてしまうのです。

そしてこの靴を手がかりに、シンデレラは王子にさがしだされるのです!

シンデレラが舞踏会から三回もにげかえったのは、思春期の心の揺れを表している

シンデレラは一度目の舞踏会で、すでに王子に「私のパートナーはこの人だ」といわせています。
このときに王子のプロポーズを受けていれば、そのまま物語は幸せな結末で終わります。

ではなぜ、この物語はシンデレラをにげかえらせているのか?
(物語によっては午前零時に魔法が解けるというような素敵な演出まで用意されている!)

そしてなぜまた舞踏会に行かせるのか?
そしてなぜまたシンデレラはにげかえってくるのか。

なぜ、無駄とも思える行ったり来たりをしているのだろうか?

このことを、長い間考えて、答えを見つけた人がいます。

小澤俊夫先生はこれを「シンデレラの振り子」と呼んでいる

シンデレラのあらすじのところで「小澤俊夫 昔話へのご招待 第2話」を参考にさせていただきました。
この番組のラジオパーソナリティである小澤俊夫先生こそが、その「答えを見つけた人」なのです。

小澤俊夫 – Wikipedia

小澤先生は大学時代から昔話を研究されていますが、このシンデレラのくりかえしのことを長い間考えていたそうです。
そして、「これは思春期の子どもの行動を語っている」と気づいたのだそうです。

普段は汚れた服を着ていたシンデレラが、実の母の魂がくれた服を着て美しくなった。
これは、シンデレラの「本当の姿が美しかった」ということ。

これが若者の姿とかさなったそうです。
若者は普段は親に心配をかけたり、先生に心配をかけたりしていても、「本当の美しい姿」になりたいと思うときがある。
そして「本当の美しい姿」になったら、それを誰かに認めてほしいと思う。

でも、実際にだれかにみとめられたら、そのままずっと「本当の美しい姿」でいつづけるかというと、そうではない。
また戻ってきて汚れた姿になる。

では、ずっとその汚れた姿のままでいるかというとそうではない。
また「本当の美しい姿」になって、誰かにみとめてもらいにいく。

行ったり来たり、をくりかえしている。

これが、長い間教師をしてたくさんの若者を見てきた小澤先生だからこそ気づけた、若者とシンデレラの共通点だということです。

思春期の若者は、自分がいずれ親から離れなければならないことを、動物の本能として知っている。
離れなきゃならないけど、離れたくない。
けど離れなきゃならない。

その間で揺れている。
振り子が振れている。

これが若者の姿なのだそうです。

小澤先生は、これを「シンデレラの振り子」と呼んでいいと思う、とおっしゃっています。

昔話の「三回くりかえし」には、一般的にはこんな意味がある

シンデレラ以外の物語にも、「三回くりかえし」には意味があります。
シンデレラはちょっとわかりにくかったけど、今度は「あ~なるほど」と思っていただけると思います!

白雪姫を例に、一般的な意味を解説

まずは、白雪姫のあらすじをご紹介。

白雪姫のあらすじ

白雪姫は、雪のように肌が白く、血のように赤い唇をした、美しいお姫様である。
白雪姫の継母は、白雪姫が自分より美しいことに我慢がならず、狩人に「白雪姫を殺す」ように命令する。しかし狩人は白雪姫を殺すことができず、白雪姫を逃がす。
白雪姫は山に住む小人たちの家をみつけ、そこで小人たちと暮らすことになる。

このことを魔法の鏡に知らされた継母は、行商人に変装して白雪姫のところへ行き、毒を仕込んだリボンを売りつけて殺してしまう。
夕方、帰ってきた小人たちは、白雪姫の身体に毒のリボンを見つけてほどく。白雪姫は生き返る。

次の日、白雪姫がまだ生きていることを知った継母は、毒のくしを白雪姫に売りつけて殺してしまう。
夕方、帰ってきた小人たちは、白雪姫の身体に毒のくしを見つけて髪からはずす。白雪姫は生き返る。

次の日、白雪姫がまだ生きていることを知った継母は、毒のリンゴを白雪姫に売りつける。
白雪姫はリンゴを一口かじると、床に倒れて死んでしまう。

夕方、帰ってきた小人たちは、白雪姫の身体をさがしたが、今度は何も見つからない。白雪姫は生き返らなかった。
小人たちは死んでいる白雪姫があまりに美しかったので、土の中に埋める気になれず、ガラスの棺に白雪姫を寝かせる。

偶然その棺を見つけた王子が、小人たちに頼みに頼んで、白雪姫を棺ごとゆずりうける。
そして棺を王子の城へ運ぶ途中、棺を運んでいた家来がつまづいて、白雪姫の身体がガタンとゆれたときに、リンゴのかけらがのどからとれて、白雪姫は生き返る。

白雪姫と王子は結婚する。

国際昔話話型カタログと、小澤俊夫 昔話へのご招待 第1話を参考に、白雪姫のあらすじをご紹介しました。

話型カタログでははじめは毒のリボンでしたが、ラジオの方では毒のリボンではなく紐で締め上げてということでした。
ラジオではリンゴのかけらがとれるところは「家来がつまづいて」ということですが、カタログでは王子が白雪姫を生き返らせるとあります。

(家来が重い棺を担ぐのがいやになって白雪姫をこづいたらリンゴのかけらが取れた、というのを読んだことがあり、私はそれが大好きです!笑)

この「三回くりかえし」という昔話の特徴には、「型」といえるものがあります。
まず、この三回のくりかえしは、ほとんど同じ言葉で語られます。
そして、三回目が一番長くて、一番重要であるということ。

これは、耳で聞くいろんなものに共通する心地よさをうみだしてくれていると、私は思っています。

子どもにとって

知っていることに再び出会ってこそ、前へ進める

一回目に聞いた言葉が、二回目にほとんど同じ言葉でくりかえされるとき、聞いている子どもは「さっきと同じ!知ってる!」と気づき、うれしくなります。

子どもは、すでに知っていることに再び出会うことが大好きです。そしてこれはとても大事なことなのだそうです。

子どもは成長の過程にあります。
昨日までできなかったことが、できるようになる。
これは、未知の世界に入ることだといえます。うれしいことだけれど、不安もある。

そうすると子どもは、すでに知っているものに再び出会って(自分の好きな絵本を読んでもらうなど)、安心して(小澤先生は「自分の人生を確認して」とおっしゃっています)、それからまた前へ進んでいく。

進んでは、戻ってきて、確かめて、安心して、また前へ進む。
これは人間にとって、とても大事なことです。

知っていることをもとに、次を類推する

白雪姫の物語でいえば、一度目に白雪姫は毒のリボンで殺されるけれど小人達によって助けられます。そして二度目には、毒のくしで殺されます。

子どもがこれを聞いているとき、「一度目は小人たちのちからで助かったから、二度目もきっと小人たちのちからで助かるだろう」と推測します。
「一度目も二度目も小人たちのちからで助かったから、三度目もきっと助かるだろう」と推測し、そのとおりにならなかったときに、ハッと思う。大変だ、となる。そして物語は進んでいきます。

この、すでに知っている知識で次を類推するということは、科学的な思考の基本で、このくりかえしで科学は進歩してきた、のだそうです。

「三回のくりかえし」をきちっと聞かせるのはとても大事なことで、ものすごく教育的な意味がある、ということです。

※この「子どもにとって」の内容はほとんど小澤先生の受け売りです。(^_^;)どうか、ご容赦を…

大人にとって

子どもと同じく、次を推測する楽しさももちろんあります。
そして、「くりかえし」を聞くのは、単純に、面白い。

昔話と同じく「聞く話」である落語も、言葉のくりかえしはとてもたくさん出てきます。
一度聞いた言葉がくりかえされはじめると、「あ、これはさっきのだ」と、ちょっとうれしくなったりします(私はうれしくなります。なぜなんでしょうね?)。

そのくりかえしが、予想どおりにきっちり同じ言葉でくりかえされれば気持ちがいいし、登場人物が言い間違えるというようなくりかえしなら面白さがうまれます。
言葉の内容そのものが面白ければ、くりかえされるたびに笑いがおこります。

それから、たとえば歌の場合、サビの部分は印象に残るメロディーで歌詞も同じ言葉(か、似た言葉)なので覚えやすく、「他のところはうろ覚えでもサビのところはちゃんと歌える」ということはけっこうあります。よね?^_^
覚えやすいだけじゃなくて「この歌のここ大好き!」というのも大事ですけど。

昔話のくりかえし部分も、「大好き!」といってもらえるほど魅力的なのが、理想的なのかも。

物語にとって

白雪姫は、一度目に失敗し、二度目も同じ失敗をし、肝心の三度目も同じ失敗をして、ついに生き返らなかった。

これはちょっと例外的かもしれないと思います。
多くの昔話は、一度目を失敗して、二度目も失敗して、三度目は成功し、その成功が物語を進ませることになるという「型」になっています。

一人が三度くりかえしをすることも、三人兄弟の兄二人が失敗して末っ子が成功するということもありますが、たいていは三度目は成功するものだと思います。

でも、この「成功」は、何をもって「成功」といえるのか。

物語にとっての成功は、その出来事によってストーリーが前へ進むこと。
現実世界では失敗であっても、物語としてはその出来事は成功かもしれないのです。

白雪姫は、三度目も同じ失敗をして、小人たちも生き返らせることができなかった。
命を落としたのだから、現実世界ではこれはもう大失敗です。

でも、その失敗のおかげで、はじめて白雪姫が王子の目にふれることになるのです。
そして王子に棺ごともらわれていき、そして生き返ります。

出来事はもう現実ではありえないことだらけなんですが(そこが昔話の魅力でもあります!)、
三度目に大失敗したからこそ、物語は前に進むことができている。

私達が「もう、白雪姫ってばかだね」と思ったとしても、白雪姫はその大失敗のおかげで大成功するのです。

「三回くりかえし」の「三回目」は、見かけは成功でも失敗でも、物語を前に進ませる大事な出来事です。
三回目があるからこそ、物語は成功するのです。

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昔話は、先祖からのメッセージ

昔話は一人の作家が書いた物語ではなく、昔のひとたち、つまり私達の遠い先祖からずっと語り継がれてきた物語です。

何人もの人によって語り継がれてきた物語には、語り手が語って聞かせていた、自分の身近な人たちに伝えてあげたいメッセージがこめられています。

古くから語り継がれてきた、口承の物語

昔話で有名な「グリム童話」は、グリム兄弟が書いた作品ではなくて、民衆の間で語られていた昔話をグリム兄弟が収集して本にまとめたものです。
本にする過程で、多少の手を加えてはいたようですが…

しかし、「三回のくりかえしをきちっと同じ言葉でくりかえすなど、昔話に対する理解はとても深かったと思う」と小澤先生はおっしゃっています。

昔話は、「耳で聞かれてきた物語」なので、聞きやすい形をしています。
小澤先生は「シンプルでクリアな文体・単純明快」とおっしゃっています。

一本の話の筋を追っていく。途中でわきにそれたりしない。心理描写はいっさいしない。などなど・・・

聞く話は情報源がその音(声・言葉)しかないので、集中してきかなければならない。
途中で気がそれてしまったら、戻って確かめられない。

なので、物語のすじに集中できるような形をしている、というわけです。

それから、「三回くりかえし」は、同じ言葉を語ることで、聞き手の緊張をふっとゆるめてあげるような効果もあるのです。

昔話は人生楽観的

昔話には、どんなメッセージがこめられているのか。

小澤先生によると、子どもが育つってどういうことかとか、人間と自然との関係とか、ひじょうに基本的なことに関してのメッセージを投げかけているのだそうです。

人間は人生で失敗をする。いろんな愚かなこともする。
でも、終局的には幸せに到着するものだ。
大きな目に見えない自然の力が、人間を導いてくれる。

楽観的な人生観みたいなものがそこにある。

世界中の昔話のほとんどが幸せに終わる。
その「幸せ」とは何か。
世界中の話が3つにまとまる。

・身の安全
・富の獲得
・結婚

最後には幸せになる。その途中で怖いことがある。
昔話は、こういう物語。

『白雪姫の真実の物語』2009年8月7日放送 第1話より

と、私にとって印象深かった部分をご紹介してみました。

生きていくための元気をくれる

最後に、管理人そだひさこの個人的な経験をちょっと書きます。

みんなが普通に昔話に親しむ年齢をすぎても、私は昔話が好きでした。
小学校の中学年くらいになると、読み物として児童文学が用意されたりします。このあたりまでは良かった。まだ楽しめた。

そして思春期ごろになると、私は「生きていくってツラいことだ」と感じるようになりました。
多少のいじめにあったことが、きっかけかも。

あるタイプの人がとても怖かった。
自分の心の中を色々と探れられるのが怖くて仕方がなかった。
そんな気持ちが大人になっても私の中にずっと居座っていたのですが・・・。

この「生きていくってツラいことだ」という、心の中を探らないで放っておいてほしいという気持ちが、「リアルな小説の心理描写、主人公の苦しむ気持ちの描写」に、耐えられませんでした。

昔話にリアルな心理描写はいっさいありません。
読んでもぜんぜん苦しくない。
もともと好きだった昔話を現実逃避先にして、この時代を乗り越えてきました。(笑)

そして30歳を過ぎた頃、ちょっと病気をしました。
症状の出ていた期間は短かったのですが、少しでも動くと激痛がしてほぼ寝たまま状態という経験をしました。

「私の人生=痛みをこらえるだけ」になるのではないかという恐怖がありました。

そのときに、(たぶん、落ち込みすぎることへの防衛本能が働いたのだと思っているのですが)ふっと、ある場面が思い浮かびました。
子どものときに読んだ昔話の、不思議すぎる一場面。

子どものときに昔話を読んで幸せな気持ちに浸っていた、あの気持ちを、不思議すぎる場面とともに思い出したのです。
思い出したその短い時間、私は痛みを忘れていました。

そして思いました。
たとえこの痛みがずっと続くとしても、この先ずっと死ぬまでの間は生きていかなくてはならない。
世の中には今の私と同じように痛みをこらえて生きている人がたくさんいる。
苦しくても、そのことを考えれば元気の出るものが必要だ。
生きていくための元気を出すことが必要だ。

私にとってのそれは昔話なんだ、と。

「不思議すぎて想像しきれない場面に奪われた心、その時現実を忘れてその世界に夢中になっていたこと」のおかげで、私は今元気で暮らしています。(笑)

昔話の根本的なメッセージのほかに、昔話の「堂々たる嘘話っぽさ、ありえないくらい不思議な世界」も、昔話の大きな魅力だと私は思います。

まとめ

昔話は語り伝えられてきた「聞く」物語なので、私達が親しんでいる小説や映像とは違った「独特の形」をもっています。
その「もとの形」があることを知ったうえで、素敵な映画や絵本を楽しむのが理想的なのかなと私は思います。

そしてその「もとの形」、たとえば、この記事のテーマである「三回くりかえし」には大切な意味があるということを、
この記事を読んでくださった方々の心にとめていただけたら、私は「この記事を書いて良かった!」と小躍りして喜びます。たぶん。(笑)

昔話は人生楽観的な、「安心して生きていっていいんだよ」というメッセージを投げかけてくれています。
そのメッセージを受けとめて、人生を前へ進めて生きたいです。ね。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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主な参考文献など

書籍:
国際昔話話型カタログ 分類と文献目録 ハンス=イェルク・ウター (著), 小澤 俊夫 (監修), 加藤 耕義 (翻訳)
昔話の語法 小澤 俊夫 (著)

ラジオ番組:
【小澤俊夫 昔話へのご招待 (Toshio Ozawa -invitation to the folktale-) | FM FUKUOKA】より
『白雪姫の真実の物語』2009年8月7日放送 第1話
『シンデレラの真実の物語』 2009年8月14日放送 第2話
『昔話のメッセージ 3 (「シンデレラ」)』 2018年2月9日放送 第445話
※長く続いている番組なので、小澤先生は大事なことを時々くりかえして放送しておられます。
第2話と第445話はほとんど同じ内容ですが、途中でアナウンサーが変わっていて、番組の雰囲気も少し?違って聞こえるかも。
(第2話のアナウンサーが落ち着いた声の中村律子さん、第445話は可愛い声の西本美恵子さん)

ウェブサイト:
シンデレラ – Wikipedia
白雪姫 – Wikipedia

この記事は小澤俊夫先生のラジオ番組がなければ書けなかった!というくらいお世話になりました。むしろ、ラジオ番組の紹介記事といってもいいかもしれません・・・

はっきり「引用部分」としているところがありますが、他の箇所も番組と同じような表現のところが多く見受けられるかと思います。これは番組の内容や、今までに読んだ書籍の内容に引きずられながら文章を書いたためです(文章力のないやつ…)。

引用部分として記述しなおすことが記事公開後にあるかもしれませんがどうぞご容赦ください。

この記事は、管理人が運営している別サイトで2018.07.11に公開した記事をこちらに移動したものです。別サイトのURLはmukashi.tokyoです。(2021.11閉鎖)

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