【お話作り日記】昔話で大事なのは昔話らしいモチーフ。私が再話に行き詰まっていた理由

昔話は「昔話らしいモチーフ」のおかげで昔話らしくなる

昔話は、モチーフでできている。昔話らしいモチーフとツークで。それに今まで気がつかなかった。愚かだ。
昔話その美学と人間像』の序のなかに、多数の類話の研究は人を興奮させる仕事である。物語の核が、あらゆる可能な限りの展開をしていることがわかる。という文がある。この「物語の核」というのが、どうやら昔話のモチーフのことであるらしい。

モチーフとツークの例を少し引用。(p250、p252)

  • こびとあるいは盗賊のすみ家に逃げこんで彼らのために家事をする美しい娘
  • (魔法の鳥によって)実を取られるので見張りを立てなければならない黄金のりんごの木
  • 自分のために魔法をかけられた兄たちを救う妹
  • はじめのうち、馬小屋のしきいでしゃべり、やがて乾き、しまいに沈黙する唾
  • なぜかわからないが、絞首刑にされた五十人を、毎日五十回むちで打つ「魔術師」
  • ガラス製の急な橋に、シロップの助けをかりてめんどりの脚の骨をはりつけること
  • 髪をくしけずると花が出てきたり、「歩く」と花が出てきたり、しゃべると口からばらが出てきたりする贈り物
  • 魔女からの「魔術的逃走」に、耳の悪い人の誤解
  • 魔女が飼っているおうむに、三日間うその天気を思わせておく
  • 魔女は、女主人公と彼女の「秘密の恋人」をからかう。足置き椅子や縫い針に変身しているのが誰だかわかっていて、わざわざその椅子に足をおいたり、わざわざその縫い針で歯の隙間を掃除したりする
  • 女は若者に、ベッドに入る前に窓を閉めてきてくれと頼むが、窓はいくら閉めてもまた勢いよく開くので、若者は一晩中ベッドに入れない

モチーフについての引用

 すなわち、「メルヒェンのモティーフ」と特に記されるのは、主として、魔法メルヒェンにとってまさに特徴的な、奇跡的、非現実的なしるしをもつ話のすじの核のことであるか、あるいは、白雪姫の七人の小人の家での滞在と仕事のように、たくさんの異なるメルヒェンにあらわれる図式に応じたすじの核のことである。このようなモティーフは、それ自体、一種の照射力をもっていて、きわめて多種類の物語に組みこまれる。それらは変化しうるものであり、さまざまな色彩を帯び、さまざまな形態をとり、ユーモアの遊びの出発点を形成する。
モティーフとツークの境界線は流動的である__骨が、よりによってシロップでガラス橋にはりつけられる、ということは、確実に、モティーフのレベルではなくて、モティーフの一部分、すなわちツークのレベルである。(p251)

昔話に変化をつけることについての引用

 才能ある語り手は、与えられた不変の枠組みの中で、かなりの遊び空間を自由にあやつる。小道具を近代化する。たとえば刀を鉄砲にとりかえ、宿屋をホテルにとりかえ__レーオポルト・シュミットはこのことについて「小道具の変遷」という術語を考え出した__ときには主人公に紙巻き煙草をすわせたり、電話をかけさせたりする。しかしこのような外観に変化をつけるばかりではない。才能ある語り手はユーモアに富んだ、いくぶんかはアイロニカルな美辞麗句をつけ加えたりするばかりではない。彼は異なる話のタイプを接合させたりもする、うまく、あるいはへたに。それに何よりもまず、才能ある語り手は、話のできごとの内的論理のなかで理由づけされるいろいろな傾向をかぎ出し、発展させる自由をもっている。話の目標は、話の中に存在するいろいろなツークやモティーフ、あるいはモティーフの複合的配置から自然にうまれるものだが、すべての語り手に認識されるわけではない。(p151)

私が再話でつまづいていた原因はたぶん、モチーフのことを頭においてなかったことだと思うのです。

以前にその言葉の意味がよくわからなくて、調べたけれど結局ピンとこないままだった「モチーフ」という言葉。それは、それだけでひとり歩きしそうな、いかにも昔話らしい「すじをもつパーツ」のことを言うのだと、きっとそうなのだと思います。

私がとろうとしていたモチーフ抜きの再話の方法

まず明確にしておきますが、ここでいう「再話」というのは「私好みにアレンジする」という意味です。

私が「再話」をするために考えていたのは以前に書いた穴埋め問題のような名詞の入れ替え。昔話は名詞が古かったり、あるいは地方独特だったりしてピンとこないことがあるので、それをもっと現代風の、昔話らしからぬ名詞に入れ替えたら面白さが増すんじゃないかなと思っていました。
それから、ちょっとしたつじつま合わせをしたり、冗長で余分だと思うところをカットしたり。

金のたまごを産むカニ@そだひさこ」は、もとの本の話をあらすじにして、長いところを少しカットして、入れ替え可能な名詞部分を空欄にして作った穴埋め問題に、自分で言葉を入れたもの。石工と仕立屋を貧乏なミュージシャンと売れない作家にして、ナイフとびんを指輪とサングラスにして、王女を女泥棒にしました。
ノートに書いた文章をPCに入力してupしたものを改めて読むと、文章がつまらなく感じて、それが不満ではありました。でもそれはそれで、話はとても面白くできたと思って、その時点では自分はとても満足していたのです。

そして、この調子で再話を続けていこうと思い『子どもに語るイタリアの昔話』から話を選んで、

  1. 読む
  2. 名詞など、気になる変えたいところを書き出す
  3. それをもとにあらすじを作ってみる、納得いくまで直す
  4. 文章にする
  5. 時間をおいて推敲する

という手順を決めてとりかかっていました。一話ずつを最後までではなく、何本も並行して作業をする予定で、10本くらいの物語に手をつけていました。
でも、どれも、あらすじを作ってみるの途中までで進まなくなっていました。どうしてもどこかでひっかかっていて、なかなか文章にしようという気持ちになれなかったのです。そのうちのひとつ、ブケッティーノと鬼という話があるので、あらすじを紹介します。

ブケッティーノというこどもが、母親の手伝いで床をはいていてお金を見つける。そのお金で何を買おうか考え、捨てるところが少なくてすむいちじくを買う。それを窓のそばで食べていて、うっかりひとつ外に落としてしまう。拾おうとするが母親にとめられる。次の朝、窓の外にイチジクの木がはえている。ブケッティーノがその木に登っていちじくを食べていると、子供を食う鬼が通りかかり、ブケッティーノに「自分にもいちじくをひとつ手でわたせ」といい、手でわたしたところをつかまえて、袋に入れて肩に担いで自分の家に向かう。しかし、途中で鬼が袋をおろして用足しに行く。そのすきにブケッティーノは袋から抜けだし、かわりに袋に石を詰めておく。戻ってきた鬼はまた袋を担いで歩きだし、自分の家が見えるとおかみさんに大声で「大鍋に湯を沸かせ」と指示する。おかみさんが湯をぐらぐら沸かすと、鬼は袋の中身を湯の中に放り込む。しかしそれはブケッティーノではなく石だった。鬼はおかみさんにもう一度湯を沸かすように指示し、ブケッティーノを探しに外へ出て行く。鬼がいなくなったところへブケッティーノが入ってきて、おかみさんを煮立った湯の中に突き落とす。そして梁の上に登って鬼が戻るのを待つ。やがて戻ってきた鬼が、鍋で煮えているのをブケッティーノだと勘違いして肉をつまみだして食べる。するとブケッティーノが梁の上から声をかけるので、その肉がおかみさんのものだとわかり、激怒して梁の上に登ろうとする。しかし登り方がわからず、どうやって登ったのかとブケッティーノにきく。ブケッティーノは一度目は皿を積み重ねたといい、二度目はコップを積み上げたといい、三度目は鍋を積み上げたという。鬼は三度目でやっと手が届きそうになるが、そのときに鍋が崩れて鬼は落ちて死ぬ。ブケッティーノは安心していちじくをたべられるようになる。

ここで私が考えていたのは、いちじくをフライドチキンに変えること。庭にいちじくの木ではなくフライドチキンの木がはえて、おいしそうなフライドチキンが実っている。ブケッティーノが大喜びで木に登ってフライドチキンを食べていると、鬼がブケッティーノを捕まえて袋に入れて肩に担いで自分の家に向かう。その途中で鬼が、家にいるおかみさんに電話をかけて「大鍋に油を入れて熱くしておけ。ブケッティーノをフライドボーイにしてやる!」と言っている…というようなことを考えていたんです。

ただ困っていたのは後半で、鬼のおかみさんが湯の中に突き落とされてその肉を鬼がブケッティーノだと思って食べるところとか、梁の上にいるブケッティーノを捕まえようとして鬼が積み上げた皿やコップを登ろうとするところとか。
鬼なのに間抜けすぎる感じがしてなじめないし、コップや皿のかわりに積み上げるようなものがどうしても思いつかなかったりして、いいと思うあらすじが出来上がらなかったのです。

でもここで、すじを大きく変えるようなことは考えませんでした。小さなつじつま合わせとか、話が冗長でもたもたすると感じたときにはカットするとか、そんなことは良いとしても、もとの本のすじを大きく変えてしまうようなことはしてはいけないような気がしていたのです。
だけど、そのもとのすじが、自分にはあまりいいと思えない。どうしたらいいのかわからなくなっていたというのが正直なところ。他の話も多かれ少なかれそんな感じで、あらすじが気に入るようにできないままでした。

で、じつはその少し後に『イタリアの昔話 トスカーナ地方 (世界民間文芸叢書)』を見つけて読んだのですが、その中にもブゲッティーノと鬼の話があるんです。その話、さっきの話と終わりがずいぶん違うのです。話の後半は、

石の入った袋を担いで家についた鬼は、湯の中に袋の中身をあけた。熱い湯がはねて鬼の体にかかり、鬼は苦しんで死んでしまった。鬼の家の屋根に上っていたブゲッティーノが降りてくると、鬼のおかみさんが、自分を鬼から解放してくれた礼を言う。ブゲッティーノは鬼の家にあったものを何でも取って、おかみさんもつれて家に帰り、みんなは一緒に楽しく暮らした。

となっています。まるで別の話みたい。

これを同じ話と呼んでいいんだろうか、などと思って、考えが煮詰まってしまって、作業も止まってしまって、気分転換に読んだのが『昔話その美学と人間像』だったのです。なんていいタイミング。(笑)

昔話はモチーフ(すじをもつパーツ)でできていて、それは昔話の他の要素と同じように、他の何とでも普遍的に結合する能力を持っている…そしてそれ自体もいろんな変化をする可能性をもっている。ゆえに同じ話の「類話」がたくさん存在するのだ…と私は解釈しました。

モチーフを自由にくっつけたりはずしたりしてもいいと思う理由

読まずに放置していた本をいいタイミングで(笑)読んだおかげで、一冊の本のテキストに縛られることなく、話の中のモチーフを取り出して、そのモチーフを単位として考えていいんだ!という私なりの考えに行き着きました。
具体的な理由はふたつ。

  1. まず、実際の語り手もモチーフをくっつけたり外したりしてお話を作ることがあったであろうし、聞き手もそれが心地よければ、ごく当たり前に受け入れる、何度でも聞きたがる、ということが普通にあったのではないかなと思うこと。単純に、その話が面白くて、聞きたい、話したい、と思われる話ならば自然に残っていくであろうこと。
  2. それからもうひとつは、私の場合「自分好みにアレンジ」して自分の作品にするわけだから、縛られる理由はそもそも無い…よね。

モチーフ単位にすることで、もうひとついいことがありました。

以前は本のテキストの一文一文を主語と述語にして…みたいな事をしていた(!)ので、日本語を勉強し直さなくてはならないと思うほどに、文意が正しく理解できているのかどうかの自信がなかったのです。しかも全体が見えてこないし。

これをモチーフ単位にすると、できごとのまとまり、それのつながり、というふうに、話全体が見えるようになるので、あらすじをあらすじとして考えることができるようになり、迷いが減りました。アレンジが考えやすくなりましたよ。

「ブケッティーノと鬼」のその後

さっきの「ブケッティーノと鬼」をモチーフ単位にしてみたもの。

  • ブケッティーノが拾ったお金でいちじくを買って食べる。
  • いちじくの食べかすから、一晩で木がはえて三晩で実が実る。
  • ブケッティーノが木に登って実を食べているところを、鬼に見つかり捕らえられる。
  • 途中でブケッティーノは袋から逃げ出し、自分の代わりに石を詰める。
  • 鬼が袋の中身に逃げられたことに気づき、さがすために家から出ていく。
  • 鬼のおかみさんがブケッティーノに湯に落とされ、鬼がその肉をブケッティーノだと思って食べる。
  • 鬼がブケッティーノの罠にはまり、高いところから落ちて死ぬ。

もうひとつの「ブゲッティーノと鬼」。

  • ブゲッティーノが拾ったお金でいちじくを買って食べる。
  • いちじくの食べかすから、一晩で木がはえて実が実る。
  • ブゲッティーノが木に登って実を食べているところを、鬼に見つかり捕らえられる。
  • 途中でブゲッティーノは袋から逃げ出し、自分の代わりに石を詰める。
  • 鬼が湯の中に袋の中身をぶちまけるが、湯がはねて鬼は死ぬ。
  • 鬼のおかみさんは解放され、ブゲッティーノは鬼の家の金を持ち帰り、愉快に暮らす。

こうすると、いちじくのかわりに何がいいかとか、途中で袋に詰めるものは石じゃなくて別のものにしてみようかとかの名詞的なことの他にも、おかみさんはいなくてもいいなとか、あるいはブケッティーノが鬼を高いところから落とすためにどんな罠をしかければいいか等の、新しい「印象的なモチーフ」になりえるようなことも思いつきそうな可能性が見えてきます。

2012年8月もだいぶ過ぎて、ちょっとだけ、先が見えてきたかな。

2021.12 追記

「昔話」の意味
昔から語り継がれてきた(主として、祖父母が囲炉裏端で孫たちに語って聞かせた)物語。口承の物語。時代・場所・人物を特定しない架空の話。「耳で聞く物語」としての昔話の文法が存在する。

昔話にたいする「再話」の意味
実際に語られていたもの(昔の言葉や土地の言葉だったりする)を、今の子供達がわかるような文章にする。昔話の文法に照らし合わせながら、自分の言葉で、自分が語れるように再話しなおす。

*  *  *

この記事を書いた人
たまに、加賀 一
そだ ひさこ

子ども時代はもちろん、大人になっても昔話好き。
不調で落ち込んでいた30代のある日。記憶の底から突如、子ども時代に読んだ昔話の場面がよみがえる。その不思議さに心を奪われて、一瞬不調であることを忘れた。自分は昔話で元気が出るんだと気づいた。

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