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ラジオ番組「小澤俊夫 昔話へのご招待」から得たこと

先日見つけたラジオ番組「小澤俊夫 昔話へのご招待」のアーカイブを、時間を見つけては聴いています。現時点で四十八時間ぶんくらい、日に二時間ずつでも二十四日かかります。なので気長に聴いています。今やっと半分くらいまで聴き終わりました。

聴き進めるうちに思ったことがふたつほどあるので、それを書きとめてみます。

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番組の中で小澤先生が普通にお話を紹介する言葉が、すうっと頭に入ってくる

何回か聴いていて気がついたんですが、小澤先生は番組の中でお話を紹介するときに、たいていは普通に話されます。ですます調の文章で紹介されることもあるのですが、ほとんどは普通の会話で紹介されます。

そして私には、普通の会話で紹介されるときのほうがすうっと頭に入ってきます。これは動かしがたい事実です。何も気持ちを構えなくても入ってくる。
だけど、ですます調の文章を読んでいる感じのときは、気持ちをちょっと頑張らないと入って来ないのです。

言葉使いの違いだけではなく、抑揚や間やスピードもたぶん違っているのだろうと思うけど、とにかく、普通の会話の続きで紹介されるほうがラクに入ってきます。

2010年11月12日の放送に、舌切雀の話の紹介があるのですが、文字にするとこんな感じでした。

『~だいたいはこんな話だと思うのね。おじいさんがいて、スズメをとても可愛がっていたと。そいでいつも何か食べさしてやって可愛がっていたと。ところがあるとき、おじいさんが留守の間に、おばあさんが、おじいさんがスズメばっかり可愛がってるもんだからスズメを憎く思ってね、そいでスズメの舌を切って、たらスズメが逃げてったと。
(ここで別のパターンもあるという説明をされます)
で、おじいさん帰ってきて、スズメがいないもんだから「スズメどうしたんだ」ってきくと、おばあさんが、「あんなやつは、その、のりを食べちゃったから、舌を切ってやったら逃げてった」と。「どこ行ったか知らねぇ」と。いうもんで、おじいさんは可哀想だっつって、探しに出るわけね。で「スズメのおやどはどこかいな」つって探しにいくわけです。そうすると、川で、馬洗いどんが馬を洗っていたと。で「スズメを見かけなかったか」って言ったら「見かけた」と。で「どこ行ったか」てきいたら「どこ行ったか知ってるけども、この馬のしょんべんを三杯飲まなきゃ教えてやらない」と。で、おじいさんはそれを飲んで、そしたら「この先に牛洗いどんがいるから、その牛洗いどんにきけ」と。~』

本当に普通に話しているふうなので、これを文字にするのはもしかしたら失礼なこと?と思ったのだけど、あえて、させていただきました。

この中で、「可愛がっていた。」「そいでいつも何か食べさてやって」「スズメばっかり可愛がってるもんだから」「で、おじいさん帰ってきて」「「どこ行ったか知らねぇ」。」「いうもんで」「つって探しにいく」等々の表現は、共通語の「ですます調」の「書かれた文章」には普通は出てこないけれども、会話の中では普通に誰でも使う表現だと思います。

そして、私にはこれが心地よく思えるんですよ。
小澤先生の話しかたそのものがとても聴きやすいせいかな、とも思うけれど、でもそれだけでもないような気もします。

以前の記事にも書いた事ですが。
「鈴木サツさんの語り」はごく普通の普段の話し言葉で話してくれているようで全然堅苦しくない感じがします(私の受けた印象として)。
これが本当に普段の話し言葉なのか、ですます調のちょっと堅い言葉使いにあたらないのかは私にはわかりませんが、少なくともスピードや抑揚や間の取り方なんかは「普通に面白い話をしてくれてる」感じ、だと思うのです。普段使っている言葉ならそれが非常にしやすいのではないかなと思います。

小澤先生は番組の中でよく「土地言葉」で語るのがいちばんいいとおっしゃっています(小澤先生は「方言」ではなく「土地言葉」といういい方をされます)。また、鈴木サツさんがこうおっしゃっていたといって「ふつうことば」という言葉を使われることもあります。

私は東京で生まれ育ったので、残念ながら「土地言葉」をもっていませんが、「ふつうことば」がもしも普段の話し言葉を指すのだとしたら、それなら私にもある。

小澤先生は昔話の本を何冊も出しておられて、その文字に残すための本の文章はきれいに整っているけれど、たとえばその、いったん整った文章を、自分のぬるま湯に漬けて、自分の話し言葉にもどして話すみたいなことを、してもいいのかな?と、感じています。

私の抱えていた「再話」という言葉への迷い。やはり自分の創作に使うべきではない

私は「インチキ昔話」と称して、昔話ふうのお話を作っていました。そして、近年は新作がどうにもこうにもできなくなって、じゃあもう、すでにある昔話を自分好みに変えて新しい話にしてみようということにしました。

作品は作品倉庫「インチキ昔話の箱」にまとめているのですが、そこで作品の説明として、たくさんの昔話を、昔話の様式をたもちつつ、自分好みに再話しております。と書いています。

2018.6.3追記 現在はリニューアルして「どこまでも、まよいみち」というサイトになりました。

「再話」という言葉を使うにあたって正確な意味を調べたのですがはっきり解らず、「自分の考えをおりまぜながら構成しなおしたもの」も再話に含まれるようだということで、それならいいかと思い、再話という言葉を使っていましたが、やはりあまりよくないように思えてきました。

番組を聴き進めていくと、ひっそりと語り継がれてきた昔話を集めることの大変さ、それからそれをきちんと伝えていくための、耳で聴きやすい言葉で「再話」するたいへんな努力・労力というものの話を聴くことになります。
そして「ああ、再話という言葉を軽々しく使うべきではないな」と感じました。

そもそも私は、子どもの頃に、「昔話を読んで自分がイメージした世界」に酔っ払っていて、大人になって体調の悪かったときにそれを思い出して、少しの間痛みを忘れて生きていく元気を出すことができた、だからやっぱり昔話が大好き、という人間なのです。

そして自分で新しい話を作ろうと思った理由は、まずは、私が酔っ払った世界をもっともっと広げたい。そしてできうるなら、私が作ったお話を読んだ「他の誰か」も、子どもの頃の私がやったように自分のイメージを作ってそこで酔っ払ってる、自分の元気のもとになる、そんなふうだといいな、と思ったのです。

だから、

私が昔話を好きなのは、それはそれでいいから

それとは別に、新しい話を作るなら「自分の世界」を作るという原点に戻ることが必要で、「昔話をどうにかして・・・」という考えはキッパリと捨てなきゃいかん。

昔話らしい語りかた(三回くりかえす・同じ場面は同じ言葉で語るなど)を取り入れるのはいいとして、好きなモチーフを自分の作品に使うのもまあいいとしても、現存する昔話をどうにか加工して新しいものにしようなどとしてはだめだ、こういう「再話」はしないほうがいい。そう、思いました。

自分の世界をつくりすすめ、ひろげて、そこで遊ぶことを夢見ること

これを忘れないようにしようと、改めて思いました。

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