昔話の語りは「昔近所で本当にあったこと」を話の上手なおばあちゃんが話してくれた感じ、みたい

ひと月ほど前、昔話って、ちょっととっつきにくい感じがすると思っていたんだよねという記事を書きました。
私がそう感じていた最大の原因はたぶん、そういうものには「書かれた台本」があるものだと思い込んでいたから。でもそれは違うみたい。

昔話の語りには、文字で書かれた台本は本来存在しないんじゃないだろうか

たとえ昔話が声で聞きおぼえて語り継いだものであっても、その音声は「目で見るものとして整えられた文章の、その文字の言葉を、おぼえて声に発したもの」だろうと思っていました。

つまり、おばあちゃんが囲炉裏端で昔話をしてくれるときにも、「むかしむかしあるところに、お月とお星という、大変仲の良い姉妹がおりました。・・・」みたいな言葉使いなのだと思っていたんですよ。(もちろん土地の方言ではあっても)ていねいな(ですます調の)言葉使いで、文章はきちんと校正されていて、という。

だから「朗読」と「語り」の違いは、そのお話のテキストを「読み上げる」のか、「おぼえてしまって声に発する」のか、という程度だと思っていました。おぼえてしまっていれば聞き手の反応(要求)に応じやすかったり、物語が自分のものになりやすかったり、という感じに。

だけど、どうも、私のその台本存在説(?)は間違っているような気がしてきました。

私は一度だけ、実際の語り手である鈴木サツさんの語りを『昔話の語法(小澤俊夫著:福音館書店)』の付属CDで聴いたことがありました。でもその聴いたときの状況というのが、本にある「語法」の解説を読みながら、難しいなーと思いながらでした。なので今考えると、はたして私はその語りをちゃんと聴けていたのだろうか?という疑問がでてきて、

じゃあもう一回聴いてみよう。

ということで、今度は本を見ずに、布団に入ってからリピート再生で何回も聴きました。そしたら、リピートするまでもない一回目の再生で「これ、おばあちゃんが普通に面白い話を聞かせてくれてるみたい」と感じました。ごく普通の、普段の話し言葉で。全然、堅苦しくないじゃん!!(鈴木サツさんは岩手県遠野の方で、私はその方言がほとんど解らなかったんですけど…)

書かれた文字の言葉をもとにしているような気配はまったく感じませんでした。つまり、文字の台本は存在しない…?

「ばあちゃんが面白い話をしてくれた」な感じ

もっと鈴木サツさんの語りを聴いてみたいと思って、キーワード「鈴木サツ」で検索してみましたが、CD付きの昔話集は現在は入手不可能で、私が借りられる図書館にも置いてありませんでした。
しかしこの検索がきっかけで、あるラジオ番組を見つけました。エフエム福岡の「小澤俊夫 昔話へのご招待」。2009年夏から始まって現在も続いている番組で、とても有難いことに、番組の音声ファイルのアーカイブが聴けるのです。まさか小澤俊夫さんの講義(?)を、聴くことができるなんて思ってもいませんでした。なんという幸せ!

そして2009年11月の放送分は、どれもまさに私が求めていた内容でした。
昔話の語りを誰が誰にどんな状況で語っていたのか、語り手鈴木サツさんがどうやってお話を語るようになったのか、そして鈴木サツさんの新しい音声、そして現代の若い語り手の語りはどんななのか(おはなし会の音声)。

この放送アーカイブによると、昔話はやはり囲炉裏端でお年寄りが子どもに聞かせていたらしいということ、鈴木サツさんは小澤俊夫先生(番組にならって私も先生とお呼びすることにします)が出会った中でももっとも素晴らしい語り手であったということ、やはり鈴木サツさんの新しい音声もとてもひきつけられるものであったということ、現代の語りはやはり「ですます調の台本」にもとづくらしいということ。

鈴木サツさんの言葉は、(私は方言がわからないので断言はできないのだけれど)たぶん、普段の会話で使うような言葉なのだと思うのです。
冒頭の「むかす、あったずもな」の「あったずもな」は、東北出身の夫によると「あったんだってよ」というような言葉だそうです。

おばあちゃんが、小さい子どもに、「むかーし、あったんだってよ。」とやさしく言ってから(実際のサツさんの音声のここの部分はほんとうに、おばあちゃんの孫に対する言葉のようです。書いても伝えきれません。ぜひ、どうか聴いてみてください!)、昔本当に近所であったことを話して聞かせてくれているような錯覚をおぼえるほどの臨場感で、話してくれているのです。

これはいったい何なのだろうと考えるに…
抑揚のつけかた、間の取りかた、部分によって話すスピードを変えている等々、相手をひきつける話し方が、とてもとても上手なのです。

付属CDのほうの「お月お星」という昔話は書籍の中で文字に起こされているんですが、これはけっして「見る文章」として整えられてはいません。
頭の中にある「見聞きした出来事」をひとに話して聞かせるときの言葉のようです。主語と述語の位置がちょっとヘンだったり、接続詞が多くなったりというような、普段の会話をそのまま書き起こしたらこれに近いものになると思うのだけれど、でも聴くには変に感じない、という。

ただ、それがそういう話し言葉なのだとしても、昔話の決まりごと(三回の繰り返しがある、同じ場面はそっくり同じ言葉で語るなど)はきちんと守られているので、それがいっそう話を面白く聞かせてくれるのだと思います。

標準語(共通語)でこんな語りを作ってみたい

作ってみたいという言葉を使ったのには理由があります。
ぜひ、この遠野の方言の「お月お星」を、共通語で、同じように巧みな語りで聴いてみたい。それにあたって、その「あえて見る文章として整えない」文字の台本を私が作ってみたい。
そして、それを東北ずん子さんに音声化してもらいたい。

以前の記事で東北ずん子さんに私の作品を読み上げてもらったときに、ちょっと気になったのが「一本調子」だということ。もうちょっと何とかできればと思いはしたのですが。

ずん子さんの読むスピードや抑揚の強弱の設定は色々できるのだけれど、ひとつのファイルの中で「この部分はゆっくり読む」「この部分は抑揚を大きくする」ということができないので、どうしても、はじめから終わりまで同じ調子になってしまいます。
鈴木サツさんの語りのような音声ファイルを作るには、ひとつの台本をいくつにも区切って、それぞれに別のスピードや抑揚を設定して細切れのファイルを作り、それをつなぎ合わせることが必要になります。

はい、えらい時間がかかります。でもそれをすごくやってみたいっす。

いつかその音声を公開できたらと思っています。いつか、なるべく早く。(え、大丈夫か、オイ…)

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