美人鏡・3(第二稿)
やがて貧しい旦那さんが仕事を終えて家に帰ってくると、貧しい奥さんが台所の床に倒れていました。旦那さんはあわてて奥さんを起こそうとしましたが、奥さんは目をさましませんでした。旦那さんは奥さんを部屋へ運び、寝床に寝かせました。そして、今度は本当に奥さんが死んでしまうかもしれないと思って、台所に戻って、声をころして泣きました。そしてふと、テーブルの下に目をやると、そこに大きな袋が転がっているのを見つけました。その袋の口からは、たくさんのお金がこぼれ落ちていました。旦那さんは何が起こったのかわけがわかりませんでした。旦那さんは言いました。
「どうしてここにお金があるのだろう。いったいどこから降ってきたんだ?」
そして、はっと気がつきました。
「そうだ、お金だ! お医者と薬屋を呼んで来なくては!」
旦那さんはこぼれ落ちていたお金をつかんでふところに入れて、急いで隣町へ走って行きました。そしてお医者と薬屋を連れて戻ってきました。お医者は奥さんを診察すると、旦那さんに向かって、言いました。
「残念だが、奥さんの病気はとても悪い。もう助からないな。」
そのとき、そう言ったお医者の後ろに、あの気味の悪い死神がゆらりとあらわれました。旦那さんは死神を見たとたんに、ああもうだめなのだという絶望の気持ちで心がいっぱいになりました。死神はギョロリとした目で旦那さんを見て、それから大きな口でニタリと笑いました。それから、言いました。
「旦那さん、奥さんを迎えに来たよ。」
お医者と薬屋は死神に驚いて腰を抜かしてしまい、部屋の隅まで這って行き、二人でぶるぶるとふるえていました。旦那さんは、悔し涙を流しながら言いました。
「ああ、今朝は鏡のおかげであんなに元気になっていたのに、夕方帰ってきたらこのありさまだ。いったい私のいない間に何があったというのだ。おい死神! 妻が死ぬのなら俺も死ぬぞ!」
そして旦那さんは死神の手から無理矢理カマを奪い取り、自分の胸に突き刺そうとしました。死神はあわてて旦那さんをおさえこみ、旦那さんの手からカマを取り返しました。死神は言いました。
「旦那さん、私は言ったはずだ。後でまた奥さんを迎えに来るから、せめて死ぬ前の奥さんをなぐさめてやれとな。あの鏡はただの美人鏡だ。死を免れる力などはないのだぞ。」
それを聞いたお医者と薬屋は、ぶるぶるとふるえながら、死神に聞きました。
「あ、あのう、死神さま。美人鏡とはいったい、どんな鏡なのですか。」
死神は二人をギョロリとにらみつけると、大きな口でニタニタと笑いながら言いました。
「あの鏡か。あの鏡は男には何の役にも立たないが、女があの鏡を見ると、自分の顔が世界一の美人に見えるのだ。ただ、それだけのことさ。」
お医者はぶるぶるとふるえながら、
「なるほど、なるほど。」
とうなずきました。薬屋もぶるぶるとふるえながら、
「なるほど、なるほど。」
と感心しました。旦那さんは死神に押さえつけられたまま、
「そういえば鏡がみあたらないぞ。」
と言いました。すると、気を失っていた奥さんが、ぼんやりと目を開けて、言いました。
「鏡、私の鏡、お金持ちの奥さんが持って行ってしまった…」
これを聞くと旦那さんは死神に言いました。
「死神、お願いだ。私は最後にもう一度妻に鏡を見せてやりたい。だから、私が鏡を取り返して戻ってくるまで、どうか妻をこのままにしておいてくれないか。」
死神は旦那さんを押さえつけていた手をゆるめました。旦那さんは死神にお礼を言うと、急いで隣町へ向かいました。
旦那さんが隣町のお金持ちのお屋敷に来ると、お屋敷の中では、お屋敷中のお金がなくなったことに気付いたお金持ちの旦那さんが大騒ぎしていました。そして、お金持ちの奥さんは、美人鏡を見てうっとりしていました。貧しい旦那さんは、ドアを蹴破ってお金持ちのお屋敷にあがりこみ、驚いているお金持ちの旦那さんを押しのけて、お金持ちの奥さんのところへ行き、言いました。
「お金持ちの奥さん、その鏡は私の妻のものだ。はやくこちらに返してください。」
するとお金持ちの奥さんは言いました。
「私はこの鏡をあんたの奥さんから買ったのよ。あれだけお金をやったのに、まだ足りないのかい。貧乏のくせになんて欲張りなのかしらね!」
貧しい旦那さんは言いました。
「私の妻は重い病気でもう助からない。死ぬ前にもう一度その鏡を見せてやりたいのです、どうかその鏡を返してください。いや、どうか少しの間その鏡を貸してください。」
これを聞くと、お金持ちの奥さんは少し考えて、そして意地悪く言いました。
「では、あんたの家にあるお金を全部払うというなら、少しの間貸してやってもいいよ。」
貧しい旦那さんは承知して、ようやく美人鏡を手にすると、お屋敷を飛び出して行きました。
貧しい旦那さんは家に帰ってくると、奥さんに美人鏡を手渡しました。奥さんは嬉しそうに鏡を受け取り、そっとのぞきこみました。そこには、とても美しい自分の顔が映っていました。奥さんは幸せそうに笑って、そして旦那さんに言いました。
「ねえあなた、私とても嬉しいわ、どうもありがとう。」
それから涙をひとつぶこぼすと、目を閉じて、そして動かなくなりました。旦那さんは泣きました。お医者も、薬屋も泣いていました。死神は、奥さんのたましいを連れて、どこかへ消えて行ってしまいました。
するとそのとき、お金持ちの奥さんが貧しい夫婦の家にやってきました。そして勝手にあがりこみ、台所に転がっているお金の袋を拾い上げ、それから皆のいる部屋へ来て、旦那さんに言いました。
「約束通り、お金は持って行くよ。」
そして貧しい奥さんが死んでしまったのを見ると、
「おや、もう鏡も必要ないようだわね。」
と言いました。そして、美人鏡を取上げると、自分の顔を映してうっとりしてから、鏡をお金と一緒に袋に突っ込んで、お屋敷に帰って行きました。
皆はしばらくの間だまっていましたが、やがてお医者が、旦那さんに言いました。
「貧しい旦那さん、もしあんたが病気になったら、私がただで診てやろう。せめてもの私のおわびだよ。それにしてもあの鏡はよくないよ、早く壊してしまうべきだ。」
すると薬屋も旦那さんに言いました。
「貧しい旦那さん、もしあんたが病気になったら、私も薬をわけてやるよ。本当に、すまなかったなあ。それにしてもあの鏡はよくないよ、あんたが行って壊してしまうべきだ。」
貧しい旦那さんは、じっと黙っていましたが、やがて
「うん、そうだな。あの鏡はよくない。」
と言いました。
やがて、貧しい奥さんは、村のはずれの小さなお墓に入りました。貧しい旦那さんは毎日奥さんのお墓に手を合わせていました。隣町のお医者と薬屋も、時々貧しい奥さんの小さなお墓にやってきてそっと手を合わせていました。
そうして、いくつかの季節が過ぎた、ある日のことでした。貧しい旦那さんがいつものように奥さんのお墓にやってくると、そこには、隣町のお金持ちの旦那さんがいました。お金持ちの旦那さんはがっくりと肩を落として、小さなお墓を見つめていました。そして、力のない声で言いました。
「貧しい奥さん。あんたの最後の日に、うちの奥さんがたいそうひどい事をして、本当に、本当に悪かった。どうか、うちの奥さんをもう許してやってくれないか。頼む、どうかお願いだ。」
そして、頭を地べたにくっつけて、ぼろぼろと涙を流して泣き始めました。
貧しい旦那さんは、お金持ちの旦那さんに、いったい何があったのかと訊ねました。すると、お金持ちの旦那さんは貧しい旦那さんを自分のお屋敷に連れてきました。
お屋敷に着いた貧しい旦那さんは、お金持ちの奥さんの姿を見て、驚きのあまりよろよろとよろけて、どすんと尻もちをつきました。そこには、すっかり痩せて骸骨のようになったお金持ちの奥さんが座っていました。奥さんは、骸骨のような姿で美人鏡を覗きこみ、時々にったりと笑っていました。
お金持ちの旦那さんは言いました。
「うちの奥さんは、あの鏡にとりつかれてしまった。飯も食わず、いっときも鏡を手から離さないのだ。このままでは痩せて死んで、本当に骸骨になってしまう。」
貧しい旦那さんは、
「鏡を取り上げてしまえばいいではないですか」
と言いました。しかしお金持ちの旦那さんは首を振りました。そして、
「自分からは決して鏡を手から離さないし、無理に引き剥がそうとしても、どうしても手から鏡が離れないのだ」
と言いました。貧しい旦那さんは
「そんなばかな」
と言いました。
お金持ちの旦那さんは、貧しい旦那さんをちらと見て、それから自分の奥さんに言いました。
「どうだい、今日は外へ出て、町一番の料亭でうんと贅沢な食事をしようじゃないか。おまえ、贅沢は大好きだったろう?」
すると奥さんは、
「あら、そんなつまらないことをする暇があるなら、私はこの鏡を見て過ごすわよ。私は一秒だってこの鏡から目を離したくないの。どうぞ、あなたひとりで贅沢をしていらっしゃいな。」
と言い、また美人鏡を覗きこんで、にったりと笑うのでした。
次にお金持ちの旦那さんは奥さんの傍に行き、鏡を握っている奥さんの手を取りました。そして、
「ほんの少しの間でいいから、手の力を抜いてご覧。そんなに力を入れたままでは、きれいな手が使用人のようにゴツゴツになってしまうよ。」
と言いました。奥さんは、
「あら、力なんて入れていないわよ。」
と言いました。しかし奥さんの手はしっかりと鏡の柄を握っていました。旦那さんはえいっと力いっぱいに鏡を引っ張りました。それでも奥さんの手から鏡は離れませんでした。それどころか、鏡を取られては大変と思った奥さんは、鏡を奪い取ろうとする旦那さんの手を引っ掻き、ものすごい力を出して旦那さんの顔をぶちました。そして骸骨のような足で旦那さんを何度も蹴りつけ、尖った踵で倒れた旦那さんを踏みつけました。奥さんの鏡に対する執着心は、火事の炎よりも激しいものでした。旦那さんは、どうやっても、奥さんの手から鏡を奪い取ることはできませんでした。
貧しい旦那さんはお屋敷の外に出ると、静かに言いました。
「あの鏡は、よくない。」
そして、そのへんに放り出してあった、野良仕事に使う小さなカマを拾い上げ、懐に入れました。
ちょうどそこへ、お医者と薬屋がやってきました。お医者と薬屋は、旦那さんと奥さんの争う声を聞きつけて、様子を見にやってきたのです。貧しい旦那さんはお医者と薬屋に今までの事を話しました。するとお医者と薬屋は、自分たちも手を貸そう、と言いました。貧しい旦那さんはさっそく、二人を連れてお屋敷の中へ戻りました。
皆で奥さんのいる部屋へ行くと、まずお医者が、仰々しい口調でゆっくりと、お金持ちの奥さんに言いました。
「奥さん、その鏡には悪い病気が取りついている。その鏡を早く手から離さないと、あんたは本当に死んでしまうよ。」
しかし奥さんは、
「あら、鏡を手放すくらいなら、死んでしまった方がましだわ!」
と言ってケラケラと笑いました。すると次に薬屋が、懐から、薬の調合に使う石のすり鉢を取り出しました。そして言いました。
「それなら私が、非常に珍しい高価な薬を売って差し上げよう。鏡など見なくても、本当に美人になる薬だよ。」
奥さんはそれを聞いて、
「本当に美人になる?」
と、少しの間心をゆるめました。薬屋はその一瞬の隙に、石のすり鉢を掴み上げ、奥さんの持っている鏡に力いっぱい打ちつけました。奥さんは驚いて悲鳴をあげました。皆は一斉に、奥さんの手にある鏡がどうなったか見届けようとしました。
しかし、鏡は、かたい石で叩かれたにもかかわらず、小さな傷一つ付いてはいませんでした。薬屋はふたたび石のすり鉢を掴むと、鏡に何度も何度も打ちつけて、この気味の悪い鏡を叩き壊そうとしました。しかし鏡はやはり傷一つ付きませんでした。皆はたいそうがっかりしました。
これを見た貧しい旦那さんは、決心を固めました。貧しい旦那さんは立ち上がると、冷たい顔をして、お金持ちの旦那さんに言いました。
「お金持ちの旦那さん。あんたには気の毒だが、私はこの奥さんが憎くてたまらない。私の妻にあんなに酷い事をしておきながら、それをすっかり忘れて、こうしてにたにた笑っているこの女が憎くてたまらない!」
そして今度は奥さんの顔をじっと睨みつけながら、
「いいかい、お金持ちの奥さん。私はね、たった今決めたんだ。あんたを殺して、その鏡を取り返してやる。その鏡はもともとは、私の妻が死神にもらったものだ!」
と言いました。
お金持ちの奥さんは、ぎゅっと身をこわばらせました。貧しい旦那さんの目は真剣そのもので、鋭い猛獣のようでした。お金持ちの奥さんは、何か言おうにも、こわくてただ口をもごもごとさせるのが精いっぱいでした。皆は貧しい旦那さんを止めようとしましたが、貧しい旦那さんは皆を突き飛ばしました。
そして貧しい旦那さんは懐からさっきのカマを取り出すと、恐ろしい叫びとともに奥さんに襲いかかりました。奥さんは悲鳴をあげてそこから飛び退きました。カマを持った旦那さんは鬼のような形相で逃げる奥さんを追いかけ、奥さんの襟を掴みかけました。しかし奥さんは必死になってそれを振り払い、屋敷の中を逃げ回りました。旦那さんはまるで人が変ったように、大声で叫びながら奥さんを追いかけました。奥さんはこの恐怖から逃れること以外は何も考えることができませんでした。そう、このときだけは鏡に対する炎のような執着心を忘れていたのです。旦那さんは鋭くその様子を見て取ると、持っていたカマをビュッと奥さんの足元に投げつけました。カマは廊下に突き刺さり、奥さんはそれによろけて転んでしまいました。貧しい旦那さんはすぐにカマを引っこ抜くと、奥さんめがけて振りおろしました。
次の瞬間、屋根を裂くほどの悲鳴が屋敷中に響き渡りました。皆は、ついに旦那さんがとどめを刺したのだと思いました。そして、おそるおそる、旦那さんのいるその場所へ様子を見に行きました。
するとそこには、恐怖のあまりぼろぼろと涙を流している奥さんがいました。カマを振りおろされた奥さんは、もう死ぬのだと思って身体の底から悲鳴をあげ、それと同時に手から鏡を落としたのでした。しかし貧しい旦那さんは振りおろしたカマを奥さんの頭のほんのわずか手前で止めていました。そして貧しい旦那さんは、カマをそっと床に置き、かわりに床に落ちている美人鏡を拾い上げました。
皆は心からほっとしました。お金持ちの旦那さんは奥さんに駆け寄ると、よかった、よかった、と言いながら自分も涙を流しました。お医者と薬屋は、貧しい旦那さんに、よくやった、よくやった、と言って、やっぱり涙を流しました。貧しい旦那さんも、すっかり安心して、涙を流しました。
ところが、しばらく涙を流して少し落ち着いたお金持ちの奥さんは、なぜだか、だんだん悔しくなってきました。
「あんなに怖い目にあわされて、しかも大事な鏡を取られてしまうなんて!」
と、お金持ちの奥さんは思いました。そして、大事な鏡を取り返そうとして、ずんと立ち上がり、貧しい旦那さんの手から美人鏡をひったくりました。
しかしその時です。あたりが急に寒くなり、奥さんの目の前に、あの気味の悪い死神がゆらりとあらわれました。皆は驚き、奥さんは凍りつきました。死神は大きな手で奥さんの肩をぐいっと掴み、ギョロリとした目で奥さんをにらみつけると、言いました。
「奥さん、おれが貧しい旦那さんのかわりをしてやるよ。」
そして、自分の身の丈ほどもある大きなカマを振り上げて、奥さんめがけて振りおろしました。奥さんはもう声も出ませんでした。
しかし、死神が狙ったのは、奥さんの持っていた美人鏡でした。美人鏡は粉々に砕け散りました。死神は、眉間に少しだけしわをよせて、言いました。
「あんたのような意地悪女を連れて行くのはまっぴらご免だ。当分こっちには来ないでくれよ。」
そして、壊れた鏡とともに姿を消してしまいました。
お金持ちの旦那さんは、奥さんの命が助かったことを心から喜び、姿を消してしまった死神に感謝の言葉を何度も何度も言いました。お医者と薬屋は「よかった、本当によかった」と言いながら帰って行きました。貧しい旦那さんは奥さんのお墓に行くと、いつものように手を合わせ、この出来事を報告しました。
それから後、皆は病気をすることもなく、穏やかにしあわせに暮らしました。そしてお金持ちの奥さんはあいかわらず意地悪で、死神の言いつけどおりかどうかはわかりませんが、ずいぶんと長生きをしたようです。
めでたし、めでたし。
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